山裾に20キロ以上。土をかき上げて木柵を築いた「鉢伏山連峰西麓の猪土手」

筑摩野(ちくまの)<長野県松本市〜塩尻市>

3000メートル級の山を9 座も置く長野県松本市。山々の美しい姿を臨む松本盆地の南部と塩尻市にまたがる筑摩野に、延々と「猪土手(ししどて)」が築かれていた。土を盛り上げる土手タイプのため、今では崩れたり埋れたりしてその痕跡をたどっていくのはなかなか難しいが、ところどころで目にする畝に、江戸時代の人々の苦労と知恵がうかがえる。

 松本市の東側に位置する中山地区は、北アルプスの連なりを筑摩野(松本平)越しに眺められるところ。ここから内田地区を経て、塩尻市下西条に至る標高800m前後の山麓に、20km以上にも及ぶ猪土手が築かれていた。松本盆地の東部から南部にかけて、筑摩野を大きく囲むように作られ、猪や鹿などから集落を守っていたと考えられている。

 この「猪土手」は土をかき上げて作った「土手」であるため、歳月が経つにつれてその痕跡を見つけるのが難しくなっている。

長野県林業総合センターの復元猪土手

 現在は、猪土手の一部が塩尻市の長野県林業総合センターに復元されているほか、松本市内田の松本カントリークラブの敷地内に「猪土手の碑」が建立されている。
 松本カントリークラブの造成の際、教育委員会が行った現況報告によると、里から山へ出入りするための木戸の柱穴や、石が敷かれていたことが確認されたという。地域の人の手で、1971年(昭和46年)に復元されたが、今は朽ちてしまいその姿を見ることはできない。

松本カントリークラブ内にある猪土手の碑

 一方、塩尻市下西条の山中には、木々の間に溝が延びて続いている場所があり、猪土手の跡を感じられる。ただ、土手がどんどん埋まり、分かりづらくなっているのが現状だ。

塩尻市下西条に残る猪土手

 こうした猪土手が築かれた理由は、古くより、猪、鹿、狐、狸などが里に出没していたことにある。人々は野生動物から農産物を守るのに苦慮していたが、中でも群れをなして田畑を踏み荒らす猪には頭を抱えていた。
 その防御のため策を講じたのが猪土手だ。深さ1メートル、幅2メートルほどの溝を掘り、掘った土を溝の西側に盛り上げた。土手の高さは全体で2メートルぐらいになり、土手の上には猪垣という木柵を結ったので、猪が這い上がるのは容易でない造りだ。道になっている場所には、人が往来できるよう木戸を設け、夜は扉を閉めた。ところどころには、「猪落(ししおとし)」という落とし穴を掘り、生け捕りにすることもあったという。

 一般的に「シシ垣」と呼ばれる防獣対策用の構造物として作られた時期は不明だが、長野県においては主に近世中期(18世紀)とされる。1.2メートルほどの堀切と土手と猪垣からなる猪土手が、各村総出の共同作業によって28キロに及ぶほど築かれた。1692(元禄5年)の『元禄大庄屋日記』には猪土手の大改修が記されており、修理されながら江戸末期まで野生動物の侵入を防ぐ役目を果たした。
 当時、猪にどれほど悩まされたかが、いくつかの文献からうかがえる。1673年(寛文13年)はとりわけひどく田畑を荒らされ、人々は山の入り口に設けた小屋にこもって猪を追い返していた。当初は、猪が下りてくる時間帯に交替で小屋に詰め、板を打ち鳴らしたり火を焚いたりして猪を追い払ったという。しかし堪りかねて、鉄砲の使用許可を申請している。 1756年(宝暦6年)には、5カ所に小屋を設け、鉄砲5挺で猪を防ごうとしたものの被害はなくならず、その2年後に獣害の被害者が免租を代官に届け出た。 1764年(宝暦14年)にも、猪、鹿、狼がたびたび現れて耕地を荒らしたため、鉄砲使用を願い出ている。
 このように人々と野生動物の攻防は、長く繰り返されてきた。

 また、猪土手は「境界線」の役割を果たしていた可能性もある。
 動物たちが住む山は、樹木や山菜の茂る大切な資源の源でもある。山の利用をめぐって、戦国時代の頃より、隣接する村の間で争いが繰り返され、1580年(天正8年)には甲斐国の武田勝頼に裁決を願ったという話も残っている。そのため猪土手は、領地の境界を明らかにし、他の村からの密採集を防ぐ役割もあったかもしれない。

 猪土手も人々の暮らしの中で様々な意味を持って存在したはずで、いろいろな姿があったに違いない。分からないことがあるからこそ、あれこれ想像しながら歩くのがとても楽しいのだろう。

◎参考文献/『塩尻市誌』、『内田区誌』
小池則満『筑摩野の猪土手をたずねて』馬場家研究報告2018,P.45-48

<基本情報>
「鉢伏山連峰西麓の猪土手」
所在地:長野県松本市および塩尻市
公開状況:筑摩野の猪土手は山中にあり、登山ルートからも外れています。クマ注意の看板も各所にあります。探訪の際は十分気をつけましょう。
駐車場:なし
規模:20km以上

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